クリスマス狂想曲(本文サンプル) |
【前略】 「ね!日野ちゃんは来てくれるよね!」 それまで黙っていた香穂子は、急に振られて慌てる。 「え?わ、私ですか?えっと、あの、ちょっと……」 「約束でもあるの?」 言いよどむ香穂子の顔を覗き込む火原。 「い、いいえ。そういうわけじゃないんですけど」 ちらりと、本当に一瞬だけ金澤と香穂子の視線が交わった。 あ、お前さん俺と一緒にいたい、とか考えてるな?ダメだぜ。叶えてやりたいとは思うが、クリスマスシーズンの街中なんぞカップルだらけだし、何時にも増して誰に見られるか分からないんだからな。 「行ってこい、行ってこい。若人同士盛り上ってこい」 ひらひらと手を振りながら、あえて香穂子の額の辺りを見ながら言ってやる。 まともに視線を合わせたら、彼女は泣いてしまうかもしれない。それが怖い。 「ほら、金やんも言ってるし、おいでよ」 「そうだな、俺も野郎相手に料理するより、お前や冬海とかに喰ってもらいたいしな」 「料理の腕には自信があるようだな」 「料理だけじゃないぜ」 「それは知らなかったな。知りたくもないが」 「何だと!」 バチバチと飛び散る火花、が見えたような気がする。慌てて香穂子が割って入る。 「け、喧嘩しないでよ」 「「してない!」」 「あはは!日野ちゃんがいると二人も仲良しだからさ、是非来て欲しいよ」 「分かりました。楽しそうですし行きますね」 私は仲裁役ですか?と思わないでもないが、明るい火原の笑い声につられるように笑って香穂子が答えた時、下校を告げるチャイムが鳴りはじめる。それにホッとしたように金澤がパンパンと手を叩く。 「ほれほれ、帰る時間だぞ。火原に土浦に月森、お前達は鞄持ってないって事は教室に置きっぱなしだろ?早く取ってこい」 「やばい!じゃ、日野ちゃん詳しいことはまた明日ね!」 「やれやれ、今度は走らなきゃいけないみたいだな」 「金澤先生、失礼します。日野さんも」 「あ、ばいばい」 慌しく走っていく彼らの背中を見送って、大きく金澤が溜息をつく。 「騒々しいこった」 なぁ?と苦笑しつつ香穂子を見ると、先ほどの笑みは消え、硬い表情でヴァイオリンケースを見つめていた。 「あ〜日野?とんだ奴らの乱入で、今日はお前さんの演奏聴けなかったな。例の曲、やって欲しかったんだがなぁ」 残念残念、とおどけたように言ってみるが、無反応だ。 これはきっとクリスマスの件で怒っているんだろう、と察するが、わざわざ蒸し返すこともない。これ以上気まずい空気にならないうちに、とゴホンと一つ咳払いをして 「じ、じゃあ俺はまだ仕事が残ってるんで戻るわ」 「……先生は」 お前も早く帰れよ、と続けようとした言葉は小さく聞こえてきた香穂子の声で立ち消える。 「ん?なんだ?」 「先生は、ずるい」 「ずるいって何が」 いまだ俯いたままの香穂子の顔を覗き込むが、ふい、と体ごと横を向かれた。 こんな事は初めてだ。いつだって相手の目を見て話す香穂子なのに。 「先生は、毎日私の演奏聴いてるのに、ずるい」 囁くような彼女の声は心なしか震えている。こんな香穂子の声も初めてだ。 「日野?」 「先生は言いましたよね。『想いを音に託せ』って」 「あ、ああ」 コンクール最終日。生徒への片想いなんて隠しとおすつもりでいたのに。ただ、再び愛する人が現れた事だけを大事に胸にしまっておくつもりだったのに。その相手が自分に向けて演奏した『愛のあいさつ』。それがどれ程に嬉しかったかなんて、まだ口にしたことはないけれど。 「だから私毎日演奏してます。心を込めて」 まだだ。香穂子、まだ言葉にするな。『好きだ』って言いたいんだろう?分かってる。だけどまだ駄目だ。俺とお前は教師と生徒なんだから。 無意識のうちに半歩さがる金澤をようやく見上げた香穂子の瞳は潤んでいた。 「日野……」 「先生は?」 「……え」 潤んだ瞳にかける言葉がみつからない金澤にさらに問いかける。 「先生の想いは?先生は何に託してくれてるの?」 「ひ」 「私は毎日伝えてるのに。先生は聴くだけ?」 待てよ、日野。そう言いかけて伸ばした手は彼女に触れる寸前で宙に浮く。 「毎日、毎日…先生探して、演奏して、少しお喋りして。私それでいいんです。」 たとえ二人きりでなくても。そう言って、溢れそうになる涙を堪えて無理やり微笑む香穂子を見ているのが辛い。どう考えてもこんな顔させているのは自分だ。だからこそ、今はこの視線を逸らしてはいけないと思う。それでも頭にがんがん響くこの音はなんだ。 「でも、時々思うんです。もし、私があの曲を弾かなくなったら先生どうするのかなぁって」 「……っ!」 ごくり、となる喉。香穂子は不安になってる。何か言ってやらねばと思う。しかし咄嗟に何をどう言ってやればいいのか浮かばない。そんな金澤の様子に笑う香穂子。その拍子にとうとう涙が一筋流れた。 「先生…そんな顔しないで」 「そ、んな顔って言われても…お前さんこそ」 「先生、クリスマスパーティー本当にいらっしゃいませんか?」 「あ?ああ…その」 唐突に変わった話題についていけない。 「みんなと合奏して美味しいもの食べて…ああ、それぞれのソロもいいですよね」 「日野っ!」 涙声のままの香穂子に、先程から宙に浮いたままの手をのばした時、ごう、と北風が吹いた。その風は香穂子の髪をなぶり彼女の表情を隠す。その風がおさまりきらないうちに 「変なことばっかり言っちゃってごめんなさい」 帰ります!そう言って駆け出した香穂子。遠ざかる香穂子と金澤の伸ばされた手の間で、凍るように冷たい風が、触れるなというようにいつまでも吹いていた── 【中略】 『先生は何に託してくれてるの?』 何度も甦るあの言葉。 甘えちまってたって事だよなぁ。 言葉を封じたくせして自分はどうだよ。あいつの曲が聴こえてる間は、あいつが俺を好きだって安心するばっかりで。 自分に向ってくるヴァイオリンの音色と彼女の瞳。真っ暗だった世界を変える程嬉しかったくせに。 生徒との秘密の恋──引き返すなら今のうちだなんて綺麗事もいいとこだ。失うなんて考えられないくせに。手放す事なんてとうの昔に出来なくなってたのに。 二人でクリスマス。 『叶えてやりたい』だと?『好きだって言いたいんだろう?分かってる』だと?なんて傲慢な言い草だよ。香穂子がそんな事言ったことあったか?何時だってあいつは笑ってた。あれも!これも!全部俺の気持ちじゃないか。 「くそっ!」 ガンッとテーブルを蹴った拍子に冷え切ったコーヒーが零れる。白いテーブルに広がる茶色い染み。 テーブルは香穂子だ。それを醜く染めていくのは俺だ。傷つけることさえあるかもしれん。 いや…実際に傷つけてしまった。 『教師と生徒』だからって、分かったような顔をして、大人の余裕気取って、距離を取ったつもりでいて。そのくせ彼女と過ごす放課後のひと時が大切だった。 香穂子にだって大切なはずだ。だからこそ周りに誰がいようとも、自分と過ごすチャンスは逃したくなかったんだ、 それを「面倒は嫌いだ」で潰した。 「最悪…だな」 何本目かも分からない煙草に火を点けてテーブルに目をやる。カップの内側と零れたコーヒーの雫のふちの醜い線。それは香穂子に執着する自分自身のよう。 『先生は何に託してくれてるの?』 なぁ、香穂子。俺には託す音がないんだよ。行動だって薄っぺらでさ。お前泣かすくらいだろ?不器用なんだよ。無様なんだよ。昔なら、自信持ってこの声に託すことだって出来ただろうけどさ。そんな俺の事情なんて、お前にはお見通しだったんだよな……でも、これは知らなかっただろ?俺も今気付いたんだけどな。 たった今気付いた「これ」。伝えなくては、今、すぐに。 ぎゅ。 まともに吸いもしなかった煙草を灰皿に押し付けて、ジャケットを引っ掴んで部屋を飛び出した。 【後略】 |
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