離さないで……(本文サンプル)

【前略】

週末はたいてい金澤の部屋で過ごすようになっている。
恋人として付き合い始めの頃は、外食をしてみたこともあったが、狭い街の中ではどこに行っても視線が気になり落ち着かない。学院近くでもあるまいし、気にしすぎだとお互いわかってはいるが、万が一が命取りになる関係だ。それに、びくびくしながら食事をするのは少しも楽しくなかった。なにより、身体にだって悪そうだ。
結局、香穂子が金澤の部屋へ行くようになるまで、さほど時間はかからなかった。思えば、肌を合わせた感触を知ったのも同時期だった。
さすがに制服のままというのも気がひけるので、香穂子は一度、家に帰って私服に着替える。そして、改めて金澤のアパートの近くで二人は待ち合わせる。
そのへんで適当に夕飯の材料や金澤の飲むアルコールを買い込み、それから本屋やコンビニを冷やかした後は、ほとんど外に出ることもない。くだらない話をして、笑いながら料理を作り、それを食べて、テレビを見て……そんなデートとも呼べないデートを続けている。
今日も、だいたい同じように時間が進んでいる。
ただ少しだけ違うのは、今日は待ち合わせの時間が少し遅かったため、食事をする時についていたテレビ番組がいつもと違うことくらい。その程度のことなのだ。
今朝、香穂子が音楽準備室で読んだ金澤からのメールには、急に会議が入ったから遅くなると書かれていた。その通り、いつもよりも一時間ほど遅い待ち合わせになったわけだ。
こうしたことは初めてではない。会議……多分、職員会議か何かだとは思うが、詳しい話は聞いたことがなかった。

恋人とはいえ、教師と生徒という関係は、まだしばらくは変わらない。誰にも知られてはならない関係ということは、互いに十分承知の上で、こうなった。だから不満はないはず。
「不満なんてないよ」……そうはっきり言えたらいいのにな、というのが香穂子の本音だ。

わかってはいても、時々ちょっと寂しくなったりするのはどうしてだろう。
こんなに近くにいるのにね。
ねえ先生、この頃、何考えてるの?
 

***

 夕食の後片付けも終わり、金澤に付き合って見ていたナイター中継もさっき終わった。金澤が名前を呼んでいた投手がヒーローインタビューを受けていたので、きっと贔屓チームが勝ったのだろう。意味もわからずぼんやりと画面を見ていると、カチっという音とともに突然画面は真っ暗になった。振り返ると、金澤の手にはリモコンが握られていた。
 いきなり静かになる部屋で、なんとなく間が持たない。
こういう時に何か気のきいたことでも言えると、私も少しは大人の女になれるのかな。
 香穂子がそんなことを考えていることを知ってか知らずか、金澤は壁にもたれていた身体を起こすと、「こっちにおいで」と、助けを出すかのように、香穂子に向けて大きな手を差し出してきた。
 香穂子が、そろそろと膝伝いに近づくと、すぐに腰に手が回され、膝の上に抱えあげられる。
「よっこらしょ」
 ふざけた口調と裏腹に、目の前に見えるのは熱を持った瞳だ。けれど、最近この金澤の瞳には、香穂子にはわからない感情も入り混じっているようにも見えた。いや、むしろ、香穂子が知ることを拒んでいるようにすら思える時がある。

 こういう関係になる前、金澤はやたらと将来に対する漠然とした不安や、約束できない未来、それから大きすぎる年齢差を理由に、ずっと長いこと香穂子の気持ちを受け入れようとしなかった。それでも、最終的にこうして自分を受け入れてくれたのは、どういう理由があったのだろう?
香穂子はただ嬉しくて、少しの疑問も持たずに金澤の胸に飛び込んだが、その時から既に気持ちはすれ違っていたのかもしれない。

「先生、重くない?」
 この言葉は少し意味深だ。膝の上で抱かれている自分の体重を気にしているという意味と、もうひとつ、香穂子自身の存在についてはどうなのか?という意味を込めてみた。
 後者の意味に気が付かない男は鈍感だと思うが、一方で、そんなカップルは幸せだとも思う。金澤はどうだろうか?瞳からは何も読み取れない。
「……たいしたことないさ」
「少しは重いんだ」
 金澤の言葉に何か意味があるのかわからなかくて、妙に拗ねたような返事をしてしまった。金澤は「へりくつばっか言うんだな」と笑ったが、香穂子はもう何も言わなかった。
もう少し歳を取ったら自分にもわかるのだろうか?
でも、その時にはきっと金澤はまた少し上を行っているのだと思うと、香穂子はもう何も考えたくなかった。抱きしめられた胸に顔をぎゅっと押し付けた。




【後略】








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