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【前略】 「で、お前さん、夏休みだってのにわざわざここに来た理由はなんだよ」 「お借りしてた楽譜、返しに来たんです」 先生今日、出勤するって言ってたでしょう、と笑って言う。 「その為にわざわざこの暑い中、登校か?若いねぇ」 首をふりふり溜息をつく金澤に 「若いって何ですか。それに、その為だけって訳じゃないですよ。この後、菜美と笙子ちゃんとお買い物するんです」 言われて、改めて香穂子を見ると、成る程、私服だ――ほっそりした首筋とその下の鎖骨。まだ日焼けしていない、その肌の美しさを際立たせるような、白いノースリーブのワンピース。 な…んだよ、似合うじゃないか…。白が俺の好みだなんて言った事あったっけか? 「先生?」 「あ?ああ、何だ、その、買い物なら早く行けよ」 一瞬見惚れてしまって返事が遅れる。 「まだ時間あるから大丈夫ですよ」 そう言って、ふわりと金澤の耳元に唇を近づけて (もう少し一緒にいても、いいでしょう?) ね?紘人…と囁いたかと思うと、サッと身を起こす。 ガタガタッ! 又しても椅子から落ちそうになる金澤。 「お、おまっ」 「それにしても、知りませんでした」 いきなり何を!と叫びたいのに言葉にならず、あたふたする彼に構わず話しだす香穂子。 「な、何が」 動揺から立ち直れない金澤を、くすっと笑って 「先生が、野球好きなのは知ってましたけど、高校野球も守備範囲だなんて」 「あ?いいじゃねぇか高校野球。真夏の炎天下、流れる汗も構わないキビキビした動き!爽やかなプレイ!若人らしくていいねぇ。俺にはとても真似できん」 プロとはまた一味違う魅力があるんだよ。あ〜生で観たいよなぁ、と又ぼやく。 「先生、暑いの嫌いじゃないんですか?」 「俺が嫌いなのは、『面倒』だ。それに暑い日こそ冷えたビールが最高に美味いんだぜ」 「そういうものですか」 「おう、そういうもんだ」 ようやく、動揺から立ち直ったらしく機嫌よく話す。 「先生が言うと、野球がメインなんだかビールがメインなんだか分かんないです」 「ばぁか、どっちも揃って更に最高ってこったよ」 そこまで言ってニヤリと笑うと、ガタと椅子から立って (香穂子がいればもっといいけどな) と耳元で囁いてやる。 「なっ!」 途端に真っ赤になって耳を押さえる香穂子を見やって、してやったり顔の金澤。 「さっきはお前さんにやられたからな、お返しだ」 【中略】 「なぁんだ、そんなモンかぁ」 あからさまにガッカリした顔をする天羽。 「だから、普段と一緒だって言ったじゃない」 何を期待してたのよ。 そんな香穂子の声が聞こえたかのように 「だってさ〜、夏休みで殆ど人のいない校舎!密室に二人きり!全職員中ダントツでグータラな教師と、元コンクール参加者との秘密の逢瀬!なんてのだったらさ〜」 最高にドキドキしない?とウィンク。 (………この瞬間、ドキドキというより心臓がバクバクいってます。じゃなくて!いつから貴女はゴシップ記者になったの?) 「なぁんて、これは単なる好奇心よ」 「好奇心て…」 ぐったりして、ずずっ、と音を立ててレモンスカッシュを飲む。 「まぁさ〜、あの金やんに、女の人口説く甲斐性があるとも思えないけどねぇ」 「甲斐性って、社会人だよ?」 「ちっがーう!財力の事言ってんじゃないのっ!いい?」 ここで、ずいっ、と顔を香穂子に近づける。 「恋愛は、気力と体力が必要不可欠なんだよ。それなのに、金やんの口癖は何?『面倒臭い』だよ?おまけに自分の事『年寄りだ』なんて簡単に言ってさぁ。自分から老け込むような事言ってる男に、女は口説けないっての」 惚れる女もいないだろうけどね〜と一気に言ってアイスコーヒーを飲む天羽。 「そっ」 (そんな事ないよ!だって私は、私達は――) 「なんであんたが、そんな落ち込んだ顔すんのよ」 「べっ、別に、そんな顔してないよ」 ザラッ 残り少ないレモンスカッシュを氷ごと口に入れて、言いたい言葉を口にする代わりに、頬張った氷をがりがり噛み砕く。 「そう言えば…」 氷を飲み込んだ時に、冬海がぽつりと話だす。 「金澤先生、私達の事『若人』って、よく仰いますよね。金澤先生よりずっと年上の先生だって、そんな事仰らないのに。どうしてなのかなって、考えた事あったんです」 「あぁ、確かに言うね。あれもオジサン化の一種なんじゃないの?」 「そうかも、しれません。でも、私にはそれは『近づくな』ってサインに思えて、寂しいなって」 と、自分を見る香穂子の目が、驚きに見開かれているのに気付いたのか 「あ、た、多分勘違いだと思うんです。あんなに気さくな方ですから」 胸の前で両手を振って慌てて打ち消す。 「ふぅん、サインねぇ。それ、勘違いとは言い切れないかもよ?」 頬杖をつきながら、香穂子と同じように氷を口に含んで天羽が言う。 「な、なんで?金澤先生は面倒臭いって言いながら、ちゃんと私達の事気にかけてくれてるじゃない」 「んー、それも事実なんだけどさぁ。冬海ちゃんの言うことも納得出来るっていうか」 「だから、なんで!」 あまりの香穂子の迫力に、ごっくん、と氷を飲み込んで 「なんでって…勘としか言えないんだけど」 どうしたの?と訝しげな顔をされて 「……どうもしてないよ」 天羽の視線から逃げるように、俯く。 そんな香穂子の様子に天羽と冬海は、顔を見合わせる。 「そ、そう?ならいいけど。ああ〜そうだ!金やんの事よりさ、まずはどこで買い物する?」 少し重くなってしまった空気を打ち消すように、天羽が話題を変えるが、それは香穂子の耳には入らない。 先生?そうなの?『近づくな』ってサインだったの?今もそう?違うよね。違うよね?ああ、でも本当にそうだったらどうしよう。 今すぐに会って問い質したい。でも怖い。 さっき会ったばかりの彼がくれた幸福感はどこかに消えてしまった。ただただ、不安と恐怖がぐるぐる回って、気分が悪くなってくる。 「……穂?香穂ってば!」 「…え?」 「大丈夫?あんた顔真っ青だよ?」 ようやく耳に入った天羽の声は慌てていて、冬海はいつ間にか香穂子の顔に浮かぶ汗を拭おうとしていた。 「平気だよ」 と言いつつ首を振ろうとすると、途端に胸にせり上がってくるものがある。 「ごめ…なんか、吐きたい…」 「それじゃあ、私一緒にお手洗いに」 「ううん…一人で行ける」 席を立ちかける冬海を制して、よろよろと歩いていく。 その背中を見送って、天羽と冬海は大きく溜息をついた。 「失敗しちゃったよ」 【後略】 |
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